僕は兵庫県芦屋市の下町のほう、阪神沿線で生まれ育ちました。父親が当時はテニス専門の写真家で、年間300日ぐらいは海外のトーナメントの撮影に出ていました。ずっと写真のある暮らしで、僕の少年時代のアルバムをめくるとハッセルブラッド(同社製の6cm×6cm判カメラ)で撮ってもらったスクエアな写真が何枚もあります。
Photo By Masahiro Kawatei
フォトギャラリー「芦屋景観(洋館のある風景)」より
芦屋の町のすぐ近くには六甲山があって、そこから流れる住吉川とか芦屋川という川は、雨が降ればどっと水が流れるのに、晴れると乾いて普段は枯れてしまいます。でも不思議なことに、水が流れるとオイカワなどの生き物がいつの間にか育まれている。子どもの頃、まわりには海も山もあり、雨が降れば川でオイカワが泳ぎ、ミズカマキリがすく い取れてと、一通りの自然は体験していたと言えます。
でも、母親の親戚が住んでいた兵庫県の田舎のほうには、レンゲ畑がバーンと広がっていて、夏になるとため池で魚が捕れたりという「いきものにぎわい」がありました。そんな里山の自然を少しはかじっていましたから、芦屋の自然はそれに比べるとあと一歩何か足りなかった。六甲山は一番高くて900メートルですからね、言ってみれば、「箱庭的な自然」に自分は育てられたんです。
高校・大学はずっと競技テニス一辺倒で、年間360日は練習という日々でした。大学の時、たまたま夏にオフがあり、京都から日本海までテニス部の先輩達と遊びに行きました。そしたら、同級生で凄い奴が居て、素潜りでサザエとかアワビを採るんですよ。僕も見よう見まねで5mぐらい潜ったけど全然採れなかった。同級生は子どもの頃からそういう自然体験があったんでしょうね。自然を知っていた。でも僕は自然に対する知識がないから獲物の在処がわからず、採れなかった。物凄く歯がゆかったのを覚えています。
Photo by Masahiro Kawatei (写真集「一年後の桜」より)
ずっと競技テニスばかりやっていた僕は、大学卒業後、「テニスのトーナメント運営をやりたい!」一心で広告会社に入りました。でも入社したら普通にコマーシャルとかテレビ番組をつくっていたんです。テレビの仕事は面白かった。『情熱大陸』って番組、立ち上げから関わったんですよ。今でこそみんな「観てます!」とか「好きです!」と言ってくれますけど、始めた当時はなかなか視聴率が取れなくて、いろんな工夫をして3年経って手応えが出てきました。
2005年になって、晴天の霹靂のような人事異動(笑)で、僕は環境省の「チーム・マイナス6% —みんなで止めよう温暖化」の業務を担当することになりました。初めて向き合う「環境コミュニケーション」という仕事、これを「国民運動」として取組む中で、僕からにじみ出てきたのは、阪神淡路大震災の被災体験の記憶でした。
95年、阪神淡路大震災のとき、関西支社に勤務していて実家でタンスの下敷きになりました。家族は無事で家も住み続けられる状態でしたが、街は変貌してしまいました。数十秒の出来事で、家族を失った人、家を失った人、それぞれが様々な運命を受け入れねばなりませんでした。しばらくすると槌音が聞こえる土地、更地のままの土地、ますます運命の隔たりが具体的に見えてくる。そんな個人の復興の上に、自治体が町全体の復興計画として、何十年も前に書かれた戦後の都市計画のようなものを網のようにかけざるを得ない。当然、不公平感のようなものが広がり、残念な事に住民同士の対立も生まれてしまう。しかし、そうした状況の下にあっても、僕らの親の世代が中心となって多くの対話が育まれ、やがて、住民主体の町づくりが進められるようになっていきました。そのときに、地域づくり、コミュニティづくりを実感したんですね。
環境コミュニケーションに関わるきっかけとなった国民的プロジェクト「チーム・マイナス6%」
そんな経験から、チーム・マイナス6%でも、「政府からの上から目線を感じるような言い方ではなく、一人一人の生活実感からのボトムアップを」という信念をもって、各地の人々の心を動かすスイッチを考え実現していったのだと思います。環境の仕事というのは、人と人、心の共振が大事ですね。
削減目標6%、その中でも3.8%も担う森林吸収に注目して森のことを勉強し始めて、森の国民運動「フォレスト・サポーターズ」の立ち上げに関わった頃、速水林業の速水代表との出会いがありました。そこでお手伝いしたのが「フォレストック認証制度」でした。こうしてどんどん「森」にのめり込んでいったんです。今は「FSCジャパン」のお手伝いをしています。
Photo By Masahiro Kawatei(写真展「人工林の美、林業の現場」より)
初めて紀北町にある速水林業の山に入ったとき、人工林の美しさに打たれました。どーんとヒノキがあって、ウラジロが生えていて、小さな広葉樹のブッシュがあって。全てが人工的に見えるんだけど、実際に手が入っているのはスギ・ヒノキだけだという。速水さんから聞いたドイツの林学者の言葉、「最も美しい森は、最も収益性の高い森である」。これが全てを言い表していますね。
僕は、写真家として、「森」と「人」との関わりにのめり込みました。森の樹や野鳥を撮りたいというのではなくて、森に関わっている人を撮りたい。黙々と蔓草を切っていったり、ナタをふるっていたり、チェーンソーを手にしていたり。野猿のような身のこなしで自然を足場として、森を稼ぎの場として暮らしている人たちの無駄の無い動き。日本の山は「万物多様性」という精神性を当たり前のように肌で感じ、今伐るべき木を選別しようと空を見上げて「50年後の風景を思い浮かべてるんや!」という人たちの表情を撮りたい。
「誰もが人間力があって格好いい。」通うほどにそう感じました。そんな彼らをリスペクトしながら、尾鷲ヒノキの故郷で働く姿を3年間にわたり撮影しました。この写真展は、まず都市に暮らす人に見てもらいたいと、東京・大阪・名古屋のキヤノンギャラリーで開催、そして地元の熊野古道センターから声をかけてもらって展示できました。本当にたくさんのご縁をいただきました。こうしたご縁を大切にして、これからも撮り続けて行くつもりです。
2012年7月に熊野で開かれた巡回写真展「人工林の美、林業の現場。」
僕は、生物多様性をもっと身近に感じてもらうための広報・教育・普及啓発を行う「CEPAジャパン」の活動もしています。今、企業CSRの仕事やCEPAの活動を通じて感じているのは、たぶん自分たちは時代の繋ぎ手なんだなということです。
おじいちゃん、おばあちゃん達の世代は、当たり前に自然と上手く折り合いをつけて共生してきた。高度経済成長によって、経済的に豊かになったのは良かったけど、一方で、自然と共生する大事な日本の暮らしの文化という忘れ物をしてしまった。それに気づいた僕らの世代が日本の文化をもう一度見直して、子ども達の世代が自然と共生して暮らせるようにと「現代の伝承者」になっていると思うのです。
「持続可能な社会」「低炭素社会」「自然共生社会」と僕らが目指す理想を、具体的に仕上げていくのが子ども達の世代。その実現のために、僕たちはおじいちゃんおばあちゃん達の世代からの「申し送り」をたくさん整理している。でも僕らの世代でも政治家や企業のトップなど影響力の大きい人たちに、自然が循環している社会をつくることが常識だという考え方に早く変わってもらわねば間に合わないと思っています。だからこそ本業そのものがCSRという言い方になるんだと思います。
これから、自然資本で経済を動かす意味を理解した子ども達が企業で活躍するようになれば、既成概念を変えていってくれるはず。そのためにあるのが、環境コミュニケーションでありCSRで、子ども達の世代には、このキーワードが歴史の授業で語られていると良いなあと僕は思います。
川廷 昌弘(かわてい まさひろ)
日本写真家協会(JPS)会員
博報堂広報室CSRグループ部長
一般社団法人CEPAジャパン代表
1963年 兵庫県芦屋市生まれ
「チーム・マイナス6%」の立ち上げ直後から関わり、環境コミュニケーション領域に専従。現職に加えて、国連生物多様性年の10年日本委員会委員、生物多様性と子どもの森キャンペーン実行委員会委員長、藤沢市地球温暖化対策地域協議会副会長、一般社団法人チョコレボ・インターナショナル・アドバイザー、NPO法人湘南スタイル・アドバイザーなど。2010年秋に名古屋で開催された生物多様性条約(COP10)では、「教育とコミュニケーション」の決議で発言し成果を挙げ、国際自然保護連合教育コミュニケーション委員会(IUCN-CEC)メンバーに。
写真家として、芦屋で少年達に自分を投影するように撮影していると被災。なぜ写真を撮るのか自問自答しながら瓦礫の町を撮影し、一年後の被災地に咲く桜を撮影して復興に気持ちを向ける。その結果、15年分の写真を束ねて写真集「一年後の桜」を出版。現在は湘南に在住、開発や気候変動で失われつつある湘南の情緒を撮り続け個展や写真集で発表。被災体験、林業、湘南のいずれの写真も、「地域の大切な資産、残したい情景、記憶の風景を撮る」というテーマで取り組んでいる。
● 主な写真展
2001「ロスト・マイ・ワールド」銀座ニコンサロン
2004「白杭の季節」銀座・梅田・名古屋・福岡 キヤノンサロン
2009「松韻~劉生の頃~」新宿・大阪ニコンサロン
2009「Boy's summer」銀座、梅田、名古屋、福岡、仙台キヤノンギャラリー
2010「湘南の老漁師の引退」神奈川県二宮町生涯学習センター
2011「人工林の美、林業の現場」銀座、梅田、名古屋キヤノンギャラリー
● 写真集