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あの人の森は?
あの人の“森”語り:田瀬 理夫さん

あの人の森は?

あの人の“森”語り

この国の宝の中で生きてゆく。地域性、社会性、そして日常性の現れたランドスケープを 第二十二回ゲスト 田瀬 理夫さん

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美しい東京とその消失が原体験に

東京・市ヶ谷で生まれて、8歳過ぎまで暮らしました。遊び場といえば、お堀。水が澄んでいて水草や藻が繁茂し、ヘラブナやライギョを土手から釣るのが楽しみでした。当時、1950年代はまだお堀の水が澄んでいたし、道も石敷きが多く、並木道もきれいで。それが1964年の東京オリンピックを境にお堀は緑色のドロドロになるし、道もアスファルトになって、どんどん東京が汚くなっていったんですね。

市ヶ谷から石神井に引っ越した当初、周囲はほとんど練馬大根と小麦の畑でした。「麦踏みだ!」と言いながら小麦畑を踏み荒らしたりして、家と学校の往復は毎日が遠足みたいだった。石神井から所沢あたりには、まだぽつんぽつんと屋敷林に囲まれた農家があったり、竹林があったりして、広々として景色がよかったですね。その後ほとんど住宅地になりましたが。

庭づくりのはじまりは、小学生の頃

石神井公園の三宝寺池なども近所だったけど、その手前にあるボート池の脇に水路があって、魚の種類が多くてね。よく魚をとって遊んでいました。そのうち自分の家にも池が欲しくなって、セメントで小さな池をつくってもらった。それをちゃんとアク抜きして、水草を植えて魚が棲めるようにして、周りにも石を置いたり、種を買って来て蒔いたりして庭づくりのまねを始めたのが小学校の後半かな。好きだったんでしょうね。

釣り好きだった田瀬少年が遊んだボート池の現在(2021年5月撮影)

Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by Guy-aan

あと、生垣もつくりました。当時、生垣協定というのがあって、生垣はマサキと決まっていたんです。マサキは手入れしないと上に伸びて下の方が空いてくるので、その空いたところに別のものを植えれば混ざっていきますよね。常緑樹も落葉樹も少しずつ植えて行ったらだんだんと混植になって、一番多いときは44種類ぐらい混ざっていたんです。大人になっても続けて15年ぐらいで、それは素晴らしい混植の生垣になりました。

日本の庭園史を一気通貫、「景色をつくる」を意識

「なんか面白いんじゃないかな」と思って造園を志望しました。だけど、千葉大に入ったのは安田講堂が陥落した年で、残党が千葉大に来て封鎖したり、大学側がロックアウトしたりで。1年目は授業がほとんどなかったし、3年まであまりキャンパスには行かず、もっぱら海でヨットに乗っていました。

ちゃんと勉強を始めたのは4年の夏休みから。植栽学を専攻し、日本の造園史を一気通貫で見たくて、毎日大学の図書館に通い、『日本庭園史図鑑』全24巻を全部読みました。これは、重森三玲という人が古代からの日本の庭園を実測調査して解説した、すごい図説なんです。 それで、「刈り込みがどう変遷したか」にテーマを絞って、京都へ見に行ったりもして、写真集をつくったのが卒論。ペラペラの手書きの卒論でしたけどね(笑)、「刈り込みの手法はこれからの都市には必要になるのではないか」というのが結論なんだ。

刈り込みということで見て行くと、京都・修学院離宮の「大刈込」などは、庭園の様式を追求しているわけではなく、多種混植植栽を約400年かけて育て、景色そのものをつくっているんですね。桂離宮などとは全然違うわけ。「景色をつくるってこういうことだな」と、意識しました。

修学院離宮 手前が大刈込で手入れがされ、景観が維持されている多種混植植栽

Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by Daderot

公有地の私物化は駄目!そこにオオバコの種を蒔く

卒業後すぐにデザインの仕事ができると思い込んでいた僕に、面接してくれた日本設計の方が「これからの建築設計にはランドスケープデザインが必要だが、社内に教えられる人は居ない。だからまず造園の勉強をちゃんとして、人にも教えられるようになれば、そうなった時は一緒に仕事ができる」と言ってくれてね。それでまずは造園の施工会社、富士植木に入り、4年後の1977年に「プランタゴ」という事務所を立ち上げました。

プランタゴというのはオオバコのことなんですけどね、僕がまだ富士植木に居た頃、出身高校の校庭にオオバコの種を蒔いたことがありました。そこは都立高校でも一二を争う広さのグラウンドがあり、かつてはオープンで近隣の人も誰でも立ち入れて、草もいっぱい生えていた。その土地と一体となっていたのね。それなのに、ある時からフェンスで囲んで学校関係者以外は入れなくしてしまった。公共の施設なのに管理者が私物化して、近隣との縁を切ってしまった。それは駄目でしょう?

オオバコ

Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by Uncle Carl

だから僕は、毎年秋にオオバコの種を集めて春になると校庭に忍び込んで蒔く、ということを4年ぐらいやりました。固くなってしまったグラウンドをスパイク履いて耕して、種を蒔いたら普通の靴でならしたりしてね。本当はグラウンドのセンターサークルを緑にしたかったけど、土壌安定剤とか撒かれているから難しかった。周りの方は結構出たんじゃないかな。

在来の植物で、その土地にふさわしい景観を

事務所を開いた当初、たくさんの沖縄のプロジェクトに参加しました。愛植物設計の山本紀久さんと協働した「沖縄観光修景緑化調査計画」では、山本さんと「どんな植物がふさわしいか」と沖縄全県調査をしました。そうすると、リュウキュウマツ、ガジュマル、アダンなどがふさわしいという結果が出て、当然それを植栽するのがいいに決まっているんだけど、観光をやりたい人は「そんな地味なのじゃなく、ココヤシとかホウオウボクとか派手なのを植えよう」となるわけ。僕らが「島自体の地形などそれぞれの島にふさわしいものでやらないと駄目」と散々言っても、聞き入れられなくてね。

その一方で、琉球王国時代の集落を再現した「郷土村おもろさうし園(現、おきなわ郷土村 おもろ植物園)」では、記録にある樹種をそのまま忠実に再現し、沖縄在来種ばかりを植えました。ココヤシもホウオウボクもないけれど、その地域にふさわしい植物というのは、ほったらかしでも時間が経てば経つほど良くなっていくんです。みんな、海洋博の記念公園に行ったら、美ら海水族館だけでなく「郷土村おもろさうし園」にも行って見てほしいな。

都心に山をつくる。アクロス福岡

福岡市天神の複合施設、アクロス福岡は、「都心に山をつくる」試みでした。提案したコンセプトは「花鳥風月の山」。春の山、夏の影、秋の林、冬の森と源氏物語の花鳥風月のイメージを描いて、階段状になったコンクリートの建物屋上に地元福岡の周辺の山々に自生する樹木など76種類を植えた。最初の3年は、植えた苗木がまだ小さく、「バブルのコンクリートピラミッドだ」と批判されたりして。4年目に苗木が伸長してふわふわっとなってきてね、最初の賞をもらいました。

『花鳥風月図』春の山、夏の影、秋の林、冬の森。
『花鳥風月図』は、チラシなど雑がみを使ったちぎり絵で表現した

僕らには、この天神の山を「60年かけて育てる」という使命があります。1995年の竣工から26年経った今、樹種は3倍以上に増えていて、自然の山に近い四季折々の景観を見せてくれるようになりました。灌水装置をほとんど使わずに雨水だけで維持できているし、落ち葉は一度もゴミとして搬出せずそのまま残して上手く循環しているようだし、特に大きな問題は起きていません。京都・修学院離宮の大刈込のような育成管理を目指して、人の手間と時間をかけて少しずつ手を入れています。

アクロス福岡

福岡県庁跡地を文化交流拠点として再開発した公民複合施設。
天神中央公園に面したステップガーデンが、都市に「山」を出現させて、公園と一体となったランドスケープを構成している。
最上階展望台に向けては、四季の植物を巡るような植栽計画がなされおり、5階から1階まで滝が流れる。
2000年、JIA環境建築賞を受賞。2010年、都市緑化基金主催の「生物多様性保全につながる企業の緑100選」に選出、他多数。

人と馬がともに暮らす在り方を再び日常に

僕は20年以上前から、岩手県の遠野で仲間たちとクイーンズメドウ・カントリーハウスという拠点づくりに参画していて、人と馬がともに暮らす在り方を提案しています。この自主プロジェクトのコンセプトは、「Living in National Treasures(国の宝の中で生きる)」です。昭和、平成という時代は、都会でも田舎でもあたり前だったものが失われてしまいましたよね。たとえば、小学校校歌に唱われているようなその土地の昔のきれいな風景とか、子どもたちが自由に安全に遊べる「草っぱら」とか、近隣の人々も自由に出入りできる校庭とかね。

そういう日本の宝、遠野で言えば、数百年続いたのに戦後一気に消えてしまった「人と馬との関わりによって形成される風景」。それを取り戻すことで、未来が描けるのではないか。現代版馬付住宅を中心に有機農業や宿泊事業を展開すれば地域再生につながるのではないか。そう思ってやっています。この土地を誰が所有するのかではなくて、責任を持って土地を管理し、動物と付き合い、そこに居る人たちと一緒にやっていく。そういう意識で僕らは20年以上続けてきました。

畦の幅を通常より広く取ってあり、人や馬が歩いたり休んだりできる。

大切なのは、人の営みが日常化されることだと思います。日常性というのは、いつまでにやらなければいけないとか年貢を納めるためにやるとかではなく、その営みがただの日常になるということ。その結果、気分がよくなったり、馬がいい鳴き声になったり、景色がよくなったりするのを感じられること。地域性も社会性ももちろん大事なんだけど、その日常に関わる人が増えていき、そうやって景色が広がっていく。地域性、社会性、日常性がそろうと、それが宝になることなんじゃないか。

「人新世」という言葉が注目されていますが、僕は、地域性や社会性を軽視した思想や制度とその生成物で覆われた層を「昭和・平成層」と呼んでいて(笑)、既にできてしまった分厚い層を破ろうとか変えようとするのではなく、その上に新しい層を築いていけば良いと思っています。そういうことを今までとは違うやり方で、遠野みたいにやっていけたら、それが「この国の宝」になることにつながったら…そのほうが気分いいでしょう?120年以上も前に「地方は与論の本(もと)なり」と言った人もいました。

プロフィール

田瀬理夫(たせ みちお)

造園家。株式会社プランタゴ代表。

1949年東京都生まれ。千葉大学園芸学部造園学科卒業、造園施工会社勤務を経て、77年ワークショップ・プランタゴ開設。大規模施設のランドスケープから個人宅の作庭まで数多くのデザインを手がけ、景観と生活環境の再生に尽くす。2008年~2018年 農業生産法人ノース代表を兼務。おもな作品にゆりが丘ヴィレッジ、アクロス福岡、アクアマリンふくしま、地球のたまご、5×緑、クイーンズメドウ・カントリーハウスなど。

 

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